時そば

 「時そば」といえば、落語に多少なりとも興味がある方なら大抵は知っているのでは、と思うほどポピュラーな噺であるが、筆者はこの噺の中で、どうしても腑に落ちないことがあった。
 その話題に触れる前に、「時そば」の概要を紹介する。



 江戸の町には屋根裏に風鈴を下げた「風鈴そば」といわれる屋台があり、噺はその屋台を舞台に展開される。
 正月早々、ある男がとある風鈴そば屋で二八そばを一杯注文する。
 その男は、まず屋台の看板を見て、「的に矢が当たって『あたり屋』かあ、正月早々あたり屋なんざあ、こいつあ春から縁起がいいや」と言ってほめたのを皮 切りに、そばが出てくるのが早い、割り箸だから嬉しい、いいどんぶりを使っている、出汁が鰹節を使っていていい、そばは細くって腰があっていい、ちくわも 本物だぁちくわ麩なんざ使っちゃいない等々、そばを食べ始めてから食べ終わるまで、お世辞を言いまくってすっかり主人をいい気分にさせてしまう。
 そして、勘定の十六文を払う段になって、「小銭だから、間違えるといけねえや。手をだしてくんねえ。勘定して渡すから・・・」。主人が手を出したところ へ、「いいかい、よく見ていてくんな。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ところで今なんどきだい?」と聞き、主人が「へ い、ここのつで」と答えると、「とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六だ。あばよ」と、まんまと一文誤魔化してどこかへ行ってしまった。
 これを見ていたのが、少々頭の働きが鈍い、この噺の主人公。男がまんまと一文誤魔化したことに気づき、自分も早速やってみようと、明くる晩、別のそば屋を見つける。
 昨夜の男の真似をして、そば屋を持ち上げようとするがどうもうまくいかない。というのも、そばが出てくるのは遅いは、割り箸を使っていないは、どんぶり は欠けているは、汁はしょっぱいは、そばはうどんのように太くてネチョネチョしているは、ちくわは本物のちくわ麩を使っているは・・・
 それでも、何とか一杯食べ終えて、勘定を払うときに、「小銭だから、間違えるといけねえや。手をだしてくんねえ。勘定して渡すから・・・」。主人が手を 出したところへ、「いいかい、よく見ていてくんな。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ところで今なんどきだい?」。する と主人が「へい、よつで」。「よつ!?(泣) いつつ、むっつ、ななつ・・・」。


 腑に落ちないこと・・・ 「九つ」と「四つ」とじゃ五つも離れている、何故そんなに時間差があるのだ・・・ということ。
 江戸時代といえば、確か一刻は今の約2時間に該当するハズでは・・・だとすると、五つの差というのは10時間になってしまう。いくらなんでも、こんな時間の間違いをするわけないでしょ・・・ということ。
 そこで、江戸時代に関する書物を紐解いてみると、江戸時代の時間の呼び方は実にややこしいことが分かる。
 日の出と日の入りをそれぞれ昼夜の境として、昼間と夜間をそれぞれ六等分する不定時法であり、一刻の長さは常に異なっていた。
 また、その数え方によると、現在の午前0時は九つで、二時間毎に八つ、七つ、六つ、五つとなり、午前10時が四つ、午後0時が戻って九つとなる。
 なぜ、こんな不思議な数え方をしたかというと、易学の影響で二時間毎に九の倍数を基本として時刻を数えていたことによるそうだ。たとえば、午前2時は九 の二倍で十八だが、十を省略して八つ、同様に午前4時は九の三倍で二十七だが、二十を省略して七つという具合。
 時そばの最初の男の「九つ」とは、今の時間に直すと午前0時ぐらいで、後の男の「四つ」とは、午後10時ぐらいになる。したがって、実は2時間ぐらいの差しかないことになる。
 ちょっとややこしい話であるが、お分かりいただけたであろうか。

 さて、蕎麦といえば、信州・松本は本場である。しかし、筆者が高校生だった頃、蕎麦といえば駅のホームにある立ち食い蕎麦ばかり食べていた。
 時そばに倣い、「そばといえば、やはり『二八そば』だぜ」と粋がっていたが、本物の蕎麦を食べるだけの金が無かったのである。
※「二八そば」の由来には、値段が十六文だったからというのと、小麦粉と蕎麦粉の比率が二対八だった、という二説あるが、筆者は後者の説を採用していた。

 ただし、松本近辺でも、気を付けないと「駅の立ち食い蕎麦を食った方がまだ旨い」という蕎麦屋にぶち当たることがあるので、ご用心のほどを。