深志の自由

 先日、カラオケで誰かが尾崎豊の「15の夜」を唄ったのをきっかけにして、イットキ尾崎ブームが起こった。尾崎豊の歌には学校の規則に抑圧された学生達 の姿が描かれているが、それと対照的なのが深志の生活だった。ちなみに、筆者の会社の同期に尾崎豊と青山中学時代に同級生だった男がいる。彼のイメージに ある尾崎は「いつもおもしろおかしいひょうきんな豊ちゃん」なのだそうだ。

 さて、深志の自由について、私と同級のR.N君から情報が送られてきたので、一気に紹介する。彼は、深志高校から歩いて3分ぐらいのところに実家がある ので、小さい頃から深志には慣れ親しんでおり、細かいことをよく覚えているようだ。また、今は横浜市内で学習塾を経営しているため、昨今の学校事情にも詳 しい模様。


【R.Nからの情報】 (斜体は、管理人の突っ込み)

○修学旅行がない。
→高校生にもなって、皆でぞろぞろ旅行になんて行ってられっか!という趣旨なのかもしれない。でも、私は意外と修学旅行マニアだったりするので、ちょっと寂しかった。

○遠足の目的地をクラスごとに決める。
→日帰りの遠足もそうであるが、泊まりがけの旅行もクラス毎に計画して出掛けたりしていた。修学旅行代わりだったのかな。

○制服がない(私服ってのは珍しいらしいよ、都心の高校からすると)。
→これは、当時の長野県内の公立高校はほとんどそうだったから、深志の特徴というわけではないでしょう。東京の都立高校も私服だったし。

○自由に校外に出ることができる(普通は無理とのこと)。
→普通は無理なんだ?・・・意外。

○研究室に助手がいる。PTAなのか学校なのか分からないが雇っていた。各教科の授業準備をしたり、実験の後片づけをしたり、掃除したり、雑務をするパー トのおばさんがいた。近所の顔見知りのおばさんが雇われていた(教員免許とか、そういうものは絶対に持っていない)。
→これは全く記憶にありません。

○深志の森なんてのを持っている。
→「あがたの森」は有名だが、「深志の森」には行ったことあったかなあ?

○職員室には先生が全員いない(事実上、職員室は数学と国語の教科の準備室だった)。
→えっ、じゃあ他の先生はどこにいたの?それぞれの準備室?一人が好きなのかな?

○学校内にかまどがある(コンパ用)。また、コンパのために教室を開放する。
→かまど・・・そんなもんあったっけ?・・・あぁ、あったかな?

○各学年ごとにクラス替えがない(普通は、進級ごとにクラス替えをするらしい)。
→ちなみに、私は小学校も中学校もクラス替えってなかったな。断っておくが、僻地の学校で1クラスしか無かったわけではないよ。今となっては、同級会とかの時便利です。

○進学校にもかかわらず、理系・文系の選択が高3から(普通は高2にあがるときにする)。
→そうそう、高二で数Ⅲまで終わらせてしまうから、文系の人々にはきつかったろうな。

○選択科目によってクラスが分かれない(美術・音楽の選択によって、クラスが決まるのが普通の高校。選択科目でクラスを構成するので、カリキュラムが作りやすい)。極端に言えば一人一人の授業の選択が変わるため、教科運営が複雑。
→まあ、クラスの人間関係重視だったんだろうな。

○バイク通学が許可されていた(2km以上離れている場合だけど、しかも、90cc未満ならOK)。もちろん、免許は取り放題(限定解除だろうと)。
→これについては、県の教育委員会から睨まれていたようだな。痛ましい事故も相次いだし。それで結局、我々が卒業してから、規制が厳しくなったと聞いているが。


 以下は、管理人の追加情報である。

 高校生といえば、酒・煙草・パチンコなどをそろそろ隠れて始めようか、という時期にあたるが、そういう点でも深志は甘かった。まあ、教師のほとんどが深 志出身であり、自分たちも高校時代には散々悪いことをしてきたという負い目があるからだろうが。特に、飲酒には甘かった。教師に隠れて・・・ではなく、教 師と共に酒を酌み交わしたりもしていた。
 煙草は、ちょうど筆者が現役だった頃、近所の高校で煙草の火の不始末が原因のぼや騒ぎがあったため、「学校では吸うな!」というお達しが出た。今のよう に嫌煙権などというものがなかったため、煙草嫌いの筆者にとっては有り難いお達しだった。
→こんなこと書いてしまったら、深志のイメージダウンに繋がるかもしれませんが、まあ、20年以上も前のことなのでお許しください。今は、どうなんでしょうね?