生徒大会における攻防戦

 今回は、決して面白いエピソードではない。しかし、当時の深志高校生及び我々落研の生態を理解していただくために紹介する。

 深志は「自治」を売り 物にしており、何事も生徒たちにより企画され、生徒たちにより運営されていた。堅苦しい校則もなく、法律に抵触さえしなければ、何をやってもよいという雰 囲気があった。時には法律を犯している奴もいたような気もするが、ここでの本題とは関係ないので記述は差し控える。
 そんな深志における、生徒たちの最高の意思決定の場が「生徒大会」である。
 私は、生徒大会にはほとんど出席したことがないので、どんな議題が取り上げられていたのかはよく覚えていないが、多分「とんぼ祭の日程」であるとか「各サークルへの予算の配分をどうするか」といったようなことが議論されていたのだと思う。
 「私は、生徒大会にはほとんど出席したことがない」と書いたが、決して不真面目な生徒だったわけではなく、ある事情があったため出席できなかったのであ る。当時、生徒大会の開催場所であった深志の講堂はその床面積が大変狭く、全校生徒の半分程度しか収容する能力がなかったのである。全員参加が原則である生徒大会に対し、なんとも矛盾に満ちた環境であった。
 そういえば、一度だけ生徒大会で発言したことを思い出した。落研の予算要求に関する理由説明であったと記憶するが、確か「ラジカセが壊れちゃったんで、 新しいのが欲しいです。だから3万円ください」というような内容だった。まるで、親に何かをねだる子供のようである。

 余談であるが、私たちは共通一次試験が始まって3年目の受験生にあたる。したがって、文化祭の日程については、その当時の重要な議題となっていた。松本 市内で「進学校」と呼ばれる高校は、共通一次試験によって大学の試験日程が前倒しされることに伴い、文化祭も秋ではなく夏休み前に実施するよう日程変更を 行っていた。しかし、「うちは大学の予備校ではない!!」とあくまでも面子にこだわる深志は、頑なに夏休み後の開催にこだわった。
 我が落研としても、夏休み後の開催でないと困る事情があった。それは、文化祭の口演前になると1週間程度学校に泊まり込んで舞台の設営やら落語の稽古やら大喜利のネタ作りやらを行っていたのであるが、その時期になると大学が夏休み中のOBが落語の稽古を見に差し入れを持って来てくれていたのである。
 普段、ナポレオンばかりに興じ、ほとんど落語の稽古などしたことのない我々にとって、この時間が唯一といってよい落語の稽古時間だったのである。こんな一夜漬けの落語を聞かされるお客さんたちはたまったもんじゃないと今は思うのであるが、でも、この1週間で何とか形に仕上げることはできた。

 さらに余談は続くが、文化祭は結局夏休み後に実施されることになるのだが、我々の現役大学合格率は悲惨なものであり、50%を切っていた。また、長野県 内においては、それまでは東大合格者数ダントツ一位を誇っていた深志であるが、共通一次が導入されて以来、長野高校の背中を見続けることになるのである。「実」よりも「名」を取る深志の校風、といえば聞こえはよいが、よく考えれば「名」も取っていないのである。その昔、本宮ひろしの「大ぼら一代」という漫画の中で、灘、開成、鹿児島ラサール、日比谷高校などと並んで、全国の優秀校に列せられていた深志であるが、昔日の栄光は陰り始めていた。

 前置きは以上にしてここから本題に入る。これは、私が2年生の時の、とある生徒大会開催日における落研の風景である。
 生徒大会が始まっても各部室に生徒たちがたむろしている、というのは日常的な光景であり生徒会側も半ばあきらめていたわけであるが、その日はいつもと様子が違っていた。
 生徒会側が残党捜索隊を結成し、各部室を廻らせていたのだ。いつものように部室に籠もってナポレオンをやっていた我々のところにも捜索隊はやってきた。
 「今日は、大事な大会なので、出てもらえませんかねえ」最初は穏やかだった彼らであるが、のらりくらりと出席を拒む我々の態度に彼らもだんだんと語気を荒げ始めた。

 この辺が潮時かな、と私たちが腰を上げようとしたその時、部長のY.Oさんが切れた。具体的に何を語ったのかは覚えていない。でも、我々が生徒大会に参加しない真の理由、生徒会側の欺瞞、学校側の怠慢について、熱っぽく語ったような気がする。
 「我々は権力には屈しない!!」という先輩の言葉に、私たち後輩にもこみ上げて来るものがあった。ほのかな感動を覚えていた。生徒会役員も、そんな部長の熱意に言葉を失い、すごすごと引き上げていった。
 しかし、冷静に考えてみれば、ただただトランプをやりたかっただけなのである。


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